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食文化

洋食はもう、日本料理なのかもしれない

オムライスを前にすると、少しだけ分類に困る。

卵で包まれたケチャップライスに、デミグラスソースがかかっている。銀色のスプーンを入れると、卵の下から赤い米粒が崩れてくる。名前は英語風で、皿の上にはどこか洋風の顔がある。けれど、これをフランス料理だとか、アメリカ料理だとか言うには無理がある。ナポリタンもそうだ。太めのスパゲッティにケチャップの甘酸っぱさ、玉ねぎ、ピーマン、ウインナー。名前はナポリを向いているのに、味は喫茶店の午後を向いている。イタリアにそのまま持っていったら、たぶん少し会話が止まる。

では、それは西洋料理の失敗作なのだろうか。

たぶん違う。洋食の面白さは、本場からどれだけ離れたかではなく、離れたあとにどこへ着地したかにある。オムライス、カレーライス、トンカツ、コロッケ、ナポリタン。これらは「西洋料理を日本人向けにアレンジしました」というだけの料理ではない。店のまかないになり、ホテルの一皿になり、喫茶店の定番になり、スーパーの棚と家庭のフライパンへ移っていった料理である。米飯、箸、味噌汁、家庭の台所、ファミレス、学食。そういう場所に入り込んだことで、いつの間にか日本料理の一部になってしまった。

明治の食卓に肉が並ぶまで――洋食は国策から始まった

洋食の話は、だいたい明治から始まる。

1868年に明治時代が始まると、新政府は西洋を近代化の手本にした。服、建築、軍隊、学校、そして食べもの。西洋料理は、単に珍しい異国の皿ではなく、文明開化のしるしでもあった。Plenus Kome Academy の整理では、1873年には外交上の理由から宮中の公式晩餐にフランス料理が採用されたという。肉を食べることも、兵士の体格、軍隊の栄養管理、富国強兵の文脈で奨励された。食文化史の研究者 Katarzyna Cwiertka は、近代日本料理の形成を「軍事、家庭、都市、帝国」の四つの力から読み解いている。洋食はそのどれとも関わっていた。

ここで重要なのは、初期の西洋料理がかなり上から入ってきたことだ。外交の宴席、軍の糧食、上流社会の晩餐、都市のホテル、洋食レストラン。ナイフとフォーク、コース料理、肉の塊。そこには、台所で少し余ったご飯をどうするか、という感じはまだ薄い。

つまり洋食は、はじめから「お母さんの味」だったわけではない。むしろ最初は、国家が背伸びするときの料理だった。

箸で食べられる洋食が、街へ降りてくる

面白いのは、そこからである。

西洋料理は、やがて日本の食卓の側に引き寄せられていく。高価なレストランの料理が、都市の洋食店へ、料理教室へ、家庭向けの料理本へ、鉄道の食堂車へ、少しずつ降りていった。Plenus の解説では、1899年に山陽鉄道が日本で初めて食堂車を連結し、洋食を車内で提供した。列車の揺れるテーブルの上で、乗客はナイフとフォークを使って肉を切った。明治中期から後期にかけて、こうした場を通じて「和洋折衷料理」が広がり、それが現代の洋食の土台になったと整理されている。

同じ頃、料理教育も動いた。家庭向けの料理書や女学校の調理実習が、西洋料理の技法を家庭に持ち込んでいく。フライパンで肉を焼く、小麦粉でとろみをつける、バターで炒める。こうした調理法が、レストランの専門技術から家庭の道具に移った。

このとき起きたのは、味の調整だけではない。

ナイフとフォークの料理が、箸でも食べられる料理になる。パンと肉だけの皿が、米飯と味噌汁と一緒に並ぶ料理になる。ホテルの厨房でしか作れなかった料理が、家の鍋やフライパンで再現できる料理になる。西洋料理は「本場らしさ」を少しずつ脱ぎながら、そのかわりに日本の食卓で毎日使われる力を得ていく。

銀座の煉瓦亭は、その変化を店の名前ごと残している。GINZA OFFICIAL の店舗紹介では、煉瓦亭は1895年に西洋料理店として創業し、カツレツに代表されるフライもの、オムライス、ハヤシライスなどを開発して、日本で最初に「洋食店」と呼ばれるようになった店だと説明されている。ここで面白いのは、料理の名前だけではない。「西洋料理店」が、いつの間にか「洋食店」に変わる。その呼び名の変化そのものが、料理が日本の街のものになっていく過程を映している。

オムライスも、最初からいまのような卵の布団をまとっていたわけではない。煉瓦亭の初期のオムライスは、卵と米を混ぜて焼くまかない的な料理だったと語られることが多い。始まりにあるのは華麗な西洋料理ではなく、忙しい厨房でさっと食べられる飯だった。洋食は、立派な外来文化としてだけでなく、働く人の腹を満たす簡便さからも育っている。

カレーライスは、スパイスの料理ではなく「ご飯の食べ方」になった

カレーライスを見ると、この変化はわかりやすい。

カレーはインドで生まれ、英国の植民地統治を通じてヨーロッパに渡り、明治期に日本へ入った料理として語られることが多い。けれど、日本のカレーライスは、インドのカレーとも英国のカレーとも違う。小麦粉でとろみをつけたルーに、玉ねぎ、にんじん、じゃがいも、肉を煮込んで、白いご飯にかける。福神漬けが横にいて、カレー皿の縁にはご飯とルーの境界線ができる。スプーンでその境目を少しずつ崩しながら食べる。皿の上では、カレーが主役のように見えて、実は米飯をどう受け止めるかが料理全体を決めている。

これは「カレーを日本風にした」というより、「ご飯を食べる形式のなかにカレーを入れた」と言ったほうが近い。だからカレーうどんも生まれるし、カレーパンも生まれる。カレーは日本で、香辛料の体系ではなく、味のまとまり方として広まっていった。

洋食の日本化は、しばしばこのように進む。外来の料理が、日本の主食の形式――米飯を中心に、おかずと汁物が脇を固める構成――に合わせて、別のかたちに折りたたまれる。

トンカツは、衣とキャベツとソースで「定食」になった

トンカツも同じだ。

西洋のカツレツ(côtelette)は、薄い肉を少量のバターで焼く料理である。日本のトンカツはそこから出発しているが、着地点はかなり違う。厚めの豚ロースにパン粉の厚い衣をまとわせ、たっぷりの油で揚げる。横には千切りキャベツが山のように置かれ、味噌汁とご飯がつく。テーブルには濃いウスターソースの瓶があり、キャベツにもそのソースを少し垂らしてよい。ソースをかけた瞬間、これはコース料理の肉皿ではなく、定食の顔になる。

ここで起きている変化は、かなり大胆だ。

肉食は明治の近代化のしるしだった。けれどトンカツは、その近代化の標語を皿から下ろして、肉を「ご飯のおかず」にしてしまう。衣のサクサクした食感、キャベツのシャキシャキした口直し、ソースの甘い酸味、白い米飯。この一式がそろうと、肉は急に日常の顔になる。高級レストランの肉皿ではなく、「ご飯おかわりできますか」と聞きたくなる肉になる。

素材の出自より、食べ方のまとまりが勝つ。洋食が日本料理になっていくとは、こういうことだ。

ナポリタンは、ホテルの厨房から喫茶店の鉄板へ移って完成した

ナポリタンは、さらにあやしい。そして、ここを雑に通り過ぎると洋食のいちばん面白いところを逃す。

皿の上には、やわらかめのスパゲッティがある。アルデンテという言葉とは距離がある。玉ねぎ、ピーマン、マッシュルーム、ハムかソーセージ。そこへケチャップの甘さと酸味がからむ。口に入れると、トマトソースというより、熱で少し焦げたケチャップの匂いが立つ。喫茶店なら、横に粉チーズとタバスコの瓶がある。

ホテルニューグランドは、ナポリタンを自分たちの厨房から生まれた料理として紹介している。1927年に横浜で開業したこのホテルでは、スイス出身の初代総料理長サリー・ワイルのもとで、シーフードドリア、スパゲッティ・ナポリタン、プリン・ア・ラ・モードなど、のちに日本中で知られる洋食が考案された。公式サイトは、これらの料理が横浜から全国へ広がり、いまも本館1階のコーヒーハウスで提供されていると説明している。

ただし、ここに面白いねじれがある。The Japan Times の整理では、戦後、ホテルニューグランドの二代目総料理長・入江茂忠が、進駐軍の食事にあったケチャップ和えのスパゲッティから着想し、スパゲッティ・ナポリタンを作ったとされる。しかもホテル版は、のちの喫茶店ナポリタンのようなケチャップ炒めではなく、トマトピューレにガーリックやベーコンを合わせた、もう少しレストラン寄りの料理だったという。つまり、私たちが「ナポリタン」と聞いて思い浮かべるケチャップ味の赤い麺は、発祥の一皿そのものではなく、それが街へ降りていく途中でさらに変形したものなのだ。

この変形こそが大事だ。高級ホテルのトマトピューレは、喫茶店や家庭に広がるとき、どこでも手に入るケチャップへ置き換わった。茹で置きの麺でも成立し、フライパンで炒められ、ピーマンとソーセージで彩りがつく。パスタの本場から見れば後退かもしれない。けれど日本の外食文化から見れば、これはむしろ完成である。高級ホテルの一皿が喫茶店の定番になった瞬間、ナポリタンは「外国風の料理」から「いつもの味」へ変わった。

だから、この料理を「本場ではない」と言うのは簡単である。たしかに本場ではない。だが、それは欠点ではなく、ナポリタンが日本の料理になった条件そのものだ。名前はナポリを向いているのに、味は近所を向いている。このずれが、むしろこの料理の居場所を作っている。

「和食」の枠と、洋食の居場所

では、洋食は和食なのか。

ここは少し分けて考えたい。農林水産省の説明では、和食は2013年に UNESCO の無形文化遺産に登録された「日本人の伝統的な食文化」であり、地域の多様な食材の活用、栄養バランスのよい食事構成、自然や季節の表現、年中行事との結びつきの四つを特徴として説明される。この定義の中心にあるのは、出汁、旬の素材、行事食といった要素であり、洋食の世界とはかなり違う。

だから、洋食をそのまま和食と呼ぶ必要はない。

けれど「和食ではない」ことと「日本料理ではない」ことは、同じではない。日本料理という言葉を、古くからある料理の様式だけに使うなら、洋食は外に出される。だが、日本の店で考案され、日本の家庭で繰り返し作られ、日本の子どもが給食やファミレスで覚え、帰省すると食卓に並ぶ料理まで含めるなら、洋食はかなり深く内側にいる。

オムライスは冷蔵庫の余りもので作れる「家の料理」になった

オムライスをもう一度見る。

卵、米、ケチャップ、ソース。どれも単独では「伝統的な和食」の顔をしていない。けれど、皿全体としては、私たちはそれをほとんど外国料理として扱っていない。子どもの昼食であり、喫茶店のメニューであり、家で少し気合いを入れた日の料理である。冷蔵庫に鶏肉が少し残っていて、玉ねぎを刻み、ケチャップで炒めたご飯を卵で包む。うまく包めなければ、上から卵をのせる。それでもオムライスはだいたい成立する。この寛容さが、家庭料理としての強さである。

料理の国籍は、材料の出身地だけで決まらない。誰が、どこで、どんな器で、何と一緒に、どのくらいの頻度で食べるのか。その反復が、料理をある場所のものにしていく。

洋食は、西洋料理を日本風に薄めたものではない。日本の食卓が外来の料理を受け入れるとき、どこを変え、どこを残し、どこで平気な顔をするのか。その癖がはっきり見える料理である。

だからオムライスを食べるとき、そこにあるのは卵と米だけではない。明治の近代化で入ったフランス料理、煉瓦亭のまかない、ホテルニューグランドのケチャップ、鉄道食堂車のナイフとフォーク、料理本で覚えたフライパンの使い方、喫茶店の鉄板、家庭の冷蔵庫。百年以上かけて積み重なったそれらが、黄色い卵の下にしまわれている。

洋食はもう、日本料理なのかもしれない。

ただしそれは、古くから日本にあったからではない。日本の生活が、長い時間をかけてそう食べてしまったからである。