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音楽

ロックはどこから来たのか

ギターが鳴る。アンプが少し歪む。ドラムが前へ押す。歌はうまさより勢いで来る。

ロックらしい音を頭に浮かべると、だいたいこのあたりが出てくる。音が少し大きすぎて、きれいに整いすぎていない。そこに「若い」という感じがくっつく。スピーカーの前にある音楽。楽譜の上にある音楽ではなく。

では、その音はどこから来たのか。

「最初のロックンロールはこの曲です」と一曲を差し出す答え方はある。候補もある。ジャッキー・ブレンストン&ヒズ・デルタ・キャッツ(Jackie Brenston and His Delta Cats)の「ロケット88(Rocket 88)」、1951年。ビル・ヘイリー&ヒズ・コメッツ(Bill Haley and His Comets)の「ロック・アラウンド・ザ・クロック(Rock Around the Clock)」、1954年。チャック・ベリー(Chuck Berry)の「メイベリーン(Maybellene)」、1955年。エルヴィス・プレスリー(Elvis Presley)の初期録音。どれも避けて通れない。

けれど、ロックの面白さは起源が一つに決まらないところにある。誰かがある日「発明」した音楽ではないからだ。すでに鳴っていた音が、別の場所で、別の聴衆に、別の名前で聞こえたとき、それは「ロックンロール」と呼ばれ始めた。

教会のゴスペル。南部のブルース。都会のリズム・アンド・ブルース。ジャンプブルースの跳ねるビート。ブギウギ・ピアノの左手の走り。カントリーの弦楽器。ラジオの電波。レコードの溝。ジュークボックスの硬貨。エレキギターのアンプ。そして十代のポケットの中の小銭。いくつもの流れが交差したところに、ある名前がついた。

ロックの始まりは、音楽の始まりであると同時に、流通の始まりでもある。

棚は分かれていたが、音は漏れていた

ロックンロールは、1950年代半ばのアメリカで一気に名前を得た。だが音楽的な材料は、もっと前から出そろっていた。

ブルースには、繰り返すコードと、声が感情に少し遅れて追いつくような粘りがあった。ミシシッピ・デルタの農村部で生まれたこの音楽は、1920年代からレコードで広がり、シカゴ(Chicago)やメンフィス(Memphis)の都市部へ移動した人々とともに電気化されていく。

ゴスペルには、手拍子とコール・アンド・レスポンスがあった。牧師が一節歌うと、会衆が声で返す。体を揺らし、声を張り、場を巻き込む。この「聴く人を受け身にしない歌い方」は、のちにロックのライブ感覚の土台になる。

リズム・アンド・ブルース(R&B)は、ブルースをダンスホール向けに整えたものだった。1940年代の都会では、バンドがホーンセクションを加え、テンポを上げ、踊れるビートを前面に出した。レコード業界は、この音楽を「レイス・ミュージック(race music)」つまり黒人向け音楽と分類し、白人向けとは別の棚に並べていた。

カントリーやヒルビリー音楽には、白人南部の弦楽器と物語歌があった。ブギウギのピアノは、左手で機関車のように走った。

これらは、きれいに分かれた棚にいつまでも収まっていたわけではない。ミュージシャンはラジオで別の棚の音を聞き、ツアー先の街で別のジャンルの演奏者と出会い、レコードで覚え、ステージで混ぜた。教会の歌い方が夜のクラブへ行く。ブルースのギターがカントリーの速さを持つ。白人の十代が黒人向けレコード店に通う。黒人の演奏者が白人市場で売れ始める。

音は、レコード棚の仕切り板より先に、人の体に届いてしまうことがある。

ロックの前史は、「ジャンルAとジャンルBが合体しました」という図では描けない。市場は人種で分けられ、聴衆は地域で分かれ、ラジオ局もレコード会社もそれぞれの棚を持っていた。ブリタニカ(Britannica)は、ロックンロールを1950年代半ばの米国に始まる大衆音楽として整理しつつ、単にカントリーとR&Bを混ぜたものと見るだけでは足りないと説明している。棚は分かれていた。けれど音は隙間から漏れていた。ロックは、その漏れた音に名前がついた出来事だった。

エレキギターは教会から来た

ロックの始まりをエルヴィス・プレスリーから語ると、見落とすものが多い。

1938年、アーカンソー州コットン・プラント(Cotton Plant)出身の23歳の女性が、ニューヨークのコットン・クラブ(Cotton Club)でギターを抱えて歌い始めた。シスター・ロゼッタ・サープ(Sister Rosetta Tharpe)。彼女はゴスペル歌手であり、同時にエレキギターの先駆者だった。

スミソニアン音楽部門(Smithsonian Music)は、サープが伝統的なゴスペルとギターソロを組み合わせ、後続のロックンロールのミュージシャンに大きな影響を与えたと紹介している。リトル・リチャード(Little Richard)は彼女を見てギターを始めたと語り、チャック・ベリーも影響を認めている。ロックの殿堂(Rock & Roll Hall of Fame)への殿堂入りは2018年。音の上では、彼女は1930年代からロックの近くにいた。

黒人教会で歌われるゴスペルは、神に向かう音楽だ。けれど、体を揺らす力、声を張る力、その場にいる人全員を巻き込む力は、のちのロックのステージとまっすぐつながっている。サープはそこにエレキギターを持ち込んだ。聖歌の厳かさとショーの熱をつなげ、教会の外でも歌い、レコードを出し、テレビにも出た。

エレキギターとは、弦の振動をピックアップ(マイクのような磁石装置)で拾い、アンプで電気的に増幅するギターのことだ。スミソニアンのエレキギター展示は、ギターをもっと大きく鳴らしたいという必要が発明と普及につながり、ロックンロールの登場がその商業的成功を後押ししたと整理している。

なぜ音量が大切なのか。1930〜40年代のダンスホールやクラブでは、ホーンセクション(トランペットやサックス)が花形だった。ギターは伴奏楽器で、生音ではバンドの中で埋もれる。電気で増幅されて初めて、ギターはホーンに負けない音量を手に入れた。伴奏が主張になれる。音色そのものが態度になれる。

サープの存在は、ロックの起源を白人男性のギター神話だけで語る危うさを教える。ロックのギターは教会から来ている。ブルースから来ている。女性の手からも来ている。

歪んだアンプが「最初の一曲」の候補を作った

それでも、最初の一曲を探したくなる気持ちはわかる。

その候補としてよく挙がるのが、1951年の「ロケット88(Rocket 88)」だ。歌はジャッキー・ブレンストン。バンドにはアイク・ターナー(Ike Turner)がいて、サム・フィリップス(Sam Phillips)がテネシー州メンフィスの小さなスタジオで録音した。フィリップスは翌年にサン・レコード(Sun Records)を設立する人物で、のちにエルヴィスの最初のレコードも録る。

曲名の「ロケット88」は、オールズモビル(Oldsmobile)社の自動車の名前だ。歌は車を褒め、パーティーを匂わせ、ピアノが前へ跳ねる。そこへ歪んだギターが入る。

この歪みは、きれいな発明ではなく、ほとんど事故だった。移動中にアンプが車の荷台から落ちて壊れ、コーンに穴が開いた。そのまま録音に使ったところ、音が割れて荒くなった──という話が広く知られている。細部の正確さには議論があるが、面白いのは、ロックにおいて「壊れた音」が欠点ではなく魅力になったことだ。整った音ではなく、ひび割れた音のほうが、速さや若さの感触を持つ。

アメリカ議会図書館(Library of Congress)の全米録音資料登録簿は、この曲を、ロックンロール誕生に関わる多くの候補の中でも際立つものとして扱っている。理由は、のちにロックの成立に必要だったとされる要素──強いビート、歪んだギター、車とパーティーの歌詞、踊れるテンポ──が、この一枚にかなり濃く入っているからだ。

ただし「ロケット88」を「これが最初です」と言い切ると、話が小さくなる。そこに聞こえるものは、すでに多くの場所で育っていたからだ。R&Bのビート。ブルースの語り。戦後の自動車文化。小さな独立系スタジオ。歪んだギター。踊れるテンポ。これらが一枚のレコードに乗ったとき、のちのロックがかなり見えてくる。「ロケット88」は、始まりの点というより、条件がそろった交差点だった。

深夜ラジオが「ロックンロール」という名札を貼った

音があっても、名前がなければ文化にはなりにくい。

1951年7月、オハイオ州クリーブランド(Cleveland)。DJのアラン・フリード(Alan Freed)が、WJWラジオで「ムーンドッグ・ショウ(The Moondog Show)」という深夜番組を始めた。内容は、R&Bのレコードをかけること。ラジオの殿堂(Radio Hall of Fame)によれば、この番組は当初、クリーブランドのレコード店オーナー、レオ・ミンツ(Leo Mintz)の勧めで始まった。ミンツの店では、白人の十代が黒人向けR&Bレコードを買いに来ていたのだ。

フリードは、それを番組にした。黒人向けとされていたR&Bを、人種を越えた若い聴衆に向けて、深夜のラジオで流す。1954年にはニューヨーク(New York)のWINSへ移り、ボ・ディドリー(Bo Diddley)、チャック・ベリー、フランキー・ライモン&ザ・ティーンエイジャーズ(Frankie Lymon and the Teenagers)といった初期ロックの演奏者を番組で扱った。

フリードがロックを「発明」したわけではない。だが彼は、すでに鳴っていた音に別の入口を作った。そして「ロックンロール(rock and roll)」という言葉が、ある種の俗語から、特定の音楽を指す看板に変わっていく。

ブリタニカは、フリードらのDJがハードに駆動するR&Bやブルースのレコードをかけ、白人郊外のティーンエイジャーに新しい音を届けたと整理している。ここで大事なのは、「ティーンエイジャーに届いた」というところだ。

ジャンルは、音だけではできない。名前、番組枠、レコード棚の分類、チャート、雑誌の記事、映画のサントラ、ダンスホールのポスター、ライブの告知チラシ。そういう周辺装置がそろって初めて、人は「これはひとまとまりの音楽だ」と感じる。

ロックンロールは、若者がすでにあった音楽を「自分たちのもの」として聞いたときに、音楽ジャンルから社会現象へ変わった。親の音楽ではない。学校の音楽でもない。夜のラジオから来る。友だちが知っている。映画館で鳴る。ジュークボックスに硬貨を入れれば選べる。少しうるさくて、少し危ない。そこに名前がつくと、音は文化になる。

プレスリーはロックを作ったのではなく、全国のテレビに映した

エルヴィス・プレスリーを避けて通ることはできない。

1954年、テネシー州メンフィスのサン・レコードで、19歳のプレスリーが録音を始めた。ブルースマン、アーサー・クルーダップ(Arthur Crudup)の「ザッツ・オール・ライト(That's All Right)」をカバーし、裏面にはカントリーのビル・モンロー(Bill Monroe)の曲を入れた。黒人音楽と白人音楽を両面に持つシングル盤。この組み合わせ自体が、ロックンロールの交差点を一枚のレコードにしている。

1956年にはCBSのテレビ番組「エド・サリヴァン・ショー(The Ed Sullivan Show)」に出演し、6,000万人が視聴した(当時の米国人口は約1億6,800万人)。ロックンロールは、ラジオの音から、テレビの映像付きの体験へ変わった。声だけでなく、腰の動き、髪型、表情、服装が全国に届く。ブリタニカも、1954年ごろ、その音がプレスリーというイメージの周りでまとまったと説明している。

だが、プレスリーが「ロックを作った」わけではない。

彼の重要性は、すでに鳴っていた黒人音楽と南部の白人音楽の要素を、巨大な白人若者市場の前で、映像つきで見える形にしたことにある。ここにはアメリカの人種と市場の構造が入っている。1950年代のアメリカでは、ラジオもレコード店もチャートも人種別に分かれていた。ビルボード誌は白人向けの「ポップ」チャートと黒人向けの「R&B」チャートを別に集計していた。黒人の演奏者が全国的なヒットを出すには、白人市場に入る必要があった。そして白人の身体が黒人の音を演じると、それはより広い流通に乗った。

この過程は創造的でもあり、不公平でもある。ビッグ・ママ・ソーントン(Big Mama Thornton)が1953年に録音した「ハウンド・ドッグ(Hound Dog)」は、R&Bチャートで7週連続1位になった。しかし全米的なポップヒットになったのは、1956年にプレスリーがカバーしたバージョンだ。同じ曲、同じ歌詞。だが流通の回路が違う。

だからロックの起源を語るとき、白人スターの成功だけを見ると音の出発点が消える。逆に白人スターをただ盗用者と片づけても、ロックがなぜこれほど大きくなったかは見えない。大事なのは、音が人種の境界を越えたことと、その越え方がレコード会社、ラジオ局、チャートの構造に深く左右されたことを同時に見ることだ。

シスター・ロゼッタ・サープが長く「ロックの起源」の中心に置かれにくかったのも、この構造と無関係ではない。

チャック・ベリーはロックに「車と学校とギターリフ」を教えた

音の材料、流通、若者市場。それがそろったあと、ロックには「何を歌い、どう演奏するか」の型が必要だった。

チャック・ベリーがそれを作った。

アメリカ議会図書館は「ロール・オーバー・ベートーヴェン(Roll Over Beethoven)」(1956年)の説明で、ベリーが初期ロックの優れた楽曲を多く生み、推進力のあるギターと機知に富んだ歌詞で知られると整理している。

ベリーは、ロックが何を歌えるかを示した人だ。車(「メイベリーン」)。学校(「スクール・デイズ」)。ダンス(「ロック・アンド・ロール・ミュージック」)。恋。レコード。都会への移動。クラシック音楽への軽い挑発(「ロール・オーバー・ベートーヴェン」──ベートーヴェンよ、退いてくれ)。十代の日常が、2分半の曲の中で走り出す。ギターのリフが先頭を切り、言葉がリズムに乗り、笑いがある。

これが強かった。ベリーの歌は、反抗を大げさな思想にしない。十代が毎日やっていることを、少し速いテンポで歌にする。大人が眉をひそめるくらいには俗っぽく、子どもが真似したくなるくらいには簡単に聞こえ、実際に弾いてみると意外に難しい。

ベリーの楽曲は、ロックの基本セットを決めた。ギターのイントロリフ。短い曲。踊れるビート。機知のある歌詞。ステージで身体を使うパフォーマンス(ベリーの「ダック・ウォーク」は有名だ)。この一式を、のちのロックバンドがほぼそのまま受け継ぐ。ビートルズもローリング・ストーンズも、最初はベリーの曲をコピーすることから始めている。

ベリーは「最初の人」ではなく、「ロックの文法をわかりやすくまとめた人」として見るのがいい。

ロックが名前を得るために必要だったのは、音楽だけではない

ここまで来ると、ロックの始まりは音楽の歴史だけでは説明できないことが見えてくる。

ロックにはレコードが必要だった。気に入った曲を何度でも聞き返せるからだ。1950年代、シングル盤(45回転レコード)は1枚50〜89セントほどで、十代のアルバイト代でも買えた。

ラジオが必要だった。遠くの街の音が、寝室のベッドサイドや父親の車のダッシュボードに届くからだ。1950年代の米国では、ラジオ受信機の台数が1億台を超えていた。

ジュークボックスが必要だった。硬貨を1枚入れれば、若者が自分の聞きたい曲を自分で選べるからだ。食堂、ドラッグストア、ボウリング場。大人の許可なしに音楽を選べる装置だった。

映画が必要だった。音楽が身体、服装、表情をまとって映像として見えるからだ。「暴力教室(Blackboard Jungle)」(1955年)の冒頭で「ロック・アラウンド・ザ・クロック」が鳴ったとき、映画館の十代は席で踊り始めた。

エレキギターが必要だった。音が大きくなり、歪み、バンドの前面に出られるからだ。

そして十代の消費者が必要だった。戦後のベビーブームで十代人口は急増し、アルバイトやお小遣いで自分のレコードを買える最初の世代になっていた。親とは違う音を、自分たちのものとして買い、聞き、踊り、真似する人たちがいなければ、ロックは音楽ジャンルの一つで終わっていた。

イライジャ・ウォルド(Elijah Wald)の『How the Beatles Destroyed Rock 'n' Roll』は、レコード、ラジオ、ジュークボックス、テレビ、技術、聴衆の嗜好の変化からアメリカ大衆音楽史を読み直す本として紹介されている。この見方は、ロックの起源を考えるうえで相性がいい。ロックは音の混合物であると同時に、20世紀のメディア環境の産物でもあったからだ。

もし同じ音楽が、ラジオに乗らず、レコードにならず、ジュークボックスに入らず、十代の財布に届かなかったら。どこかの地域音楽として残ったかもしれない。夜のクラブの熱として消えたかもしれない。名前のない音のまま、棚の隙間に留まっていたかもしれない。

ロックンロールとは、音がメディアに乗り、十代の聴衆を手に入れたときについた名前だった。

ギターの一発目には、いくつもの場所が鳴っている

では、ロックはどこから来たのか。

答えは一つにならない。

アーカンソーの教会から来た。ミシシッピのブルースから来た。シカゴのR&Bクラブから来た。アパラチアのカントリーから来た。メンフィスの小さな録音スタジオから来た。クリーブランドの深夜ラジオ局から来た。シカゴのチェス・レコード(Chess Records)から来た。映画館のスクリーンから来た。食堂の隅のジュークボックスから来た。十代の部屋のラジオから来た。

多すぎる答えに見える。けれどロックの正体は、まさにそこにある。

ロックは純粋な一つの源流から出てきた音楽ではない。違う場所から来た音が、レコードとラジオとジュークボックスに乗り、ある時期に同じ名前で聞かれ始めた。その名前が、音楽だけでなく、服装、髪型、踊り方、親への距離、未来への焦りまで巻き込んだ。だから強くなった。

「最初のロックンロールレコード」を探すことには意味がある。だが、一曲は入口であって起源ではない。

ロックは一つの場所から生まれたのではなく、いくつもの出口から漏れ出した。ラジオがそれを拾い、レコードが固定し、ジュークボックスが街角に置き、十代が自分のものにした。

ギターの一発目を聞くとき、そこにはギターだけが鳴っているわけではない。教会の手拍子がある。ブルースの夜がある。壊れたアンプの歪みがある。メンフィスの録音室の反響がある。クリーブランドの深夜番組の選曲がある。ジュークボックスに硬貨を入れる手がある。親には少しうるさすぎる音量がある。

ロックは、それが全部ひとつのスピーカーから出てきたときに始まった。