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映画 / 身体 / 香港アクション

ジャッキー・チェンは、アクションに痛みと笑いを持ち込んだ

椅子が飛ぶ。脚立が回る。傘は雨具をやめて、二階から落ちないための命綱になる。

ジャッキー・チェンのアクションでは、部屋にある物が急に別の仕事を始める。椅子は座るためだけの物ではない。盾にもなる。足場にもなる。相手の腕を引っかける罠にもなる。最後には自分がその椅子に絡まって、余計に困ることもある。

ここで見ているのは、ただの強さではない。観客は「いま誰がどこにいるか」「次に何へぶつかりそうか」「逃げ道はどこに残っているか」を追っている。ジャッキー映画の面白さは、技が決まる瞬間だけでなく、技が決まるまでの迷い、失敗、痛みまで見えるところにある。

香港映画とジャッキー・チェンがハリウッドに持ち込んだものも、そこにある。カンフーの型や派手な蹴りだけではない。観客が身体の位置を見失わず、道具と場所の変化を追えるアクション。その作り方が、ハリウッドの見せ場を変えていった。

強い男より先に、痛がる男が見える

ジャッキー・チェン以前にも、香港映画は強い身体を撮っていた。

代表はブルース・リーである。彼の身体は、画面の中でまっすぐ相手に向かう。構え、視線、拳、蹴りが短い時間でつながり、相手を倒す。1973年公開の『燃えよドラゴン』は、ワーナーと香港のゴールデン・ハーベストが組み、香港で撮られた作品だった。武術映画を世界市場へ届け、アジア人男性スターの見え方を大きく変えた映画でもある。

そのあとに現れたジャッキーは、ブルース・リーと同じ方向へ進まなかった。

彼は勝つ前に、まず失敗する。机の角にぶつかる。足を滑らせる。ガラスを割る。相手を倒したいのに、自分の体勢のほうが先に崩れる。表情も「計算通り」ではなく「うわ、まずい」に近い。

この痛がり方が、観客との距離を縮める。もちろん、実際の身体能力は普通の人間と比べものにならない。こちらは駅の階段で足をくじく程度でも大事件だが、彼はビルやヘリコプターやショッピングモールを相手にしている。それでも、顔をしかめる一瞬があるせいで、画面の危険が具体的に伝わる。

強いからすごい、で終わらない。どこを打ったのか。どれくらい高いのか。次に立ち上がれるのか。観客がそこまで見てしまう。ジャッキー映画では、勝利より先に身体の状態がわかる。

香港映画は、身体を見失わない撮り方を鍛えた

香港映画は、ただのローカルな娯楽ではなかった。

香港での映画製作は1930年代に本格化し、1970年代以降は香港だけでなく、東南アジア、台湾、日本、そして世界へ向けて多くの作品が作られた。ゴールデン・ハーベストは1970年に設立され、ショウ・ブラザーズの強いスタジオ体制に対抗する会社として伸びた。ブルース・リー、サモ・ハン、ジャッキー・チェンという名前は、この商業映画の現場から外へ出ていった。

この環境では、身体の動きが強い共通語になる。言葉が違う地域にも売る。短い製作期間で観客を飽きさせない。そうなると、殴る、避ける、落ちる、つかまる、跳ぶといった動きは、字幕より早く伝わる。

ただし、動いていればいいわけではない。観客が追えなければ、痛みも笑いも消える。

ジャッキー映画の気持ちよさは、カメラが身体を見失わないところにある。誰がどこに立っているか。敵は何人いるか。主人公の後ろに階段があるか。手前のガラスは、次の瞬間に割れそうか。観客がそれを確認できるから、椅子ひとつ、手すりひとつがちゃんと見せ場になる。

編集で速く切り刻めば、画面は激しく見える。だが、いま何が起きたのかわからなければ、観客はただ音と揺れを浴びるだけになる。香港アクションの強みは、派手な動きそのものより、動きの原因と結果を見せるところにあった。

ジャッキーは、一直線の強さを遠回りさせた

ジャッキー・チェンは、中国戯劇学院で京劇の身体訓練を受けた。京劇は、歌や演技だけでなく、跳躍、回転、立ち回りを含む舞台芸能である。アカデミーの公式プロフィールでも、彼がそこでアクロバット、武術、演技、歌を学び、卒業後に香港映画のスタント仕事へ向かったことが説明されている。

この出自は、画面に出る。

彼のアクションは、勝敗だけで組み立てられていない。相手を倒すまでの間に、ためらい、失敗、リズムのズレ、道具を使う小技が入る。真剣な殺気だけでなく、ちょっとした間抜けさがある。そこで笑いが生まれる。

たとえば、普通のアクションなら椅子は邪魔な障害物である。ジャッキー映画では、椅子は盾になり、足場になり、相手の動きを止める罠になり、最後には自分の足を取る物にもなる。ひとつの道具が、数秒ごとに役割を変える。

この変化がわかるから面白い。観客は「椅子がある」と見て、次に「盾にした」とわかり、その直後に「今度は邪魔になった」と笑う。難しい言い方をしなくても、画面の中で物の使われ方が変わっていることはすぐわかる。その連続が、ジャッキーのアクションを軽く、速く、わかりやすくしている。

ブルース・リーを描いたポートレートイラスト
ブルース・リーを描いたポートレートイラスト

『ポリス・ストーリー』では、店内の物が全部見せ場になる

1985年の『ポリス・ストーリー』は、ジャッキー・チェンの撮り方を説明するのにちょうどいい。

この映画は香港、韓国、日本で成功した。いまも語られるのは、クライマックスのショッピングモールである。そこにはガラス、手すり、電飾、柱、売り場、階段がある。普通なら買い物のための場所だが、この場面ではすべてがアクションの部品になる。

大事なのは、主人公がその場所を完全に支配しているわけではないことだ。むしろ、場所に振り回されている。相手を追うために走る。ガラスが割れる。手すりにぶつかる。足元が滑る。痛みを挟みながら、やっと次の一手に進む。

だから観客は、敵の人数だけでなく、場所そのものを見るようになる。あそこにガラスがある。高さがある。手すりがある。いま走ると危ない。危ないから、次に何が起きるか気になる。

ハリウッドの大作アクションは、しばしば「どれだけ大きく壊すか」を見せてきた。車が爆発する。ビルが崩れる。ヘリが落ちる。もちろん、それはそれで楽しい。爆発は映画館のポップコーンと相性がいい。

ただ、ジャッキー映画の壊れ方は、もう少し近い。ガラス片、床、柱、棚。痛みの単位が小さい。小さいから、観客の身体に届く。自分ならどこで転ぶか、どこを打つかが想像できる。

銃撃戦も、格闘も、動きの順番で見せる

香港映画がハリウッドへ渡したものは、ジャッキーだけではない。

ジョン・ウーは、銃撃戦をただの撃ち合いではなく、動きの順番で見せた。誰が飛び出し、誰に向かって撃ち、どの姿勢で倒れ、どこで目が合うのか。『男たちの挽歌』以後のいわゆる heroic bloodshed は、男同士の義理、裏切り、友情を、二丁拳銃、スローモーション、横に流れる身体で見せた。BFI が整理しているように、ウーはのちに『ハード・ターゲット』や『フェイス/オフ』でハリウッドへ移り、その過剰な様式をアメリカ映画の中へ持ち込んだ。

さらに、ユエン・ウーピンがいる。

『マトリックス』でウォシャウスキー姉妹は、香港武術映画のファンとしてユエンを起用した。関係者インタビューでは、俳優たちを数か月訓練し、格闘振付、ワイヤー、ビジュアルエフェクトを組み合わせて、あの重力が少し遅れて見えるアクションを作ったことが語られている。

ここでも大事なのは、単に空中で蹴ることではない。身体がどこから動き、どこで止まり、次にどちらへ戻るかを見せることである。キアヌ・リーブスの体が止まり、構え、蹴り、ふわりと戻る。その順番が読めるから、ありえない世界でも身体に重さが残る。

香港映画の影響は、ハリウッドに「アジアっぽい味」を足したことではない。アクションを、身体の位置、道具、移動の順番で組み立て直す方法を渡したことにある。

ハリウッドが受け取ったもの、受け取りきれなかったもの

ただし、輸入はいつも完全ではない。

ハリウッドが香港映画から受け取ったものは多い。格闘振付。ワイヤー。スローモーション。長めに見せる身体。俳優を訓練する発想。アクション監督やスタントチームの重要性。これらは1990年代以降のアメリカ映画にかなり深く入った。

一方で、ジャッキー・チェンのいちばん変な魅力は、輸入しにくい。

それは、本人が本当に痛そうに見えることだ。

アカデミーのイベント記録でも、彼が自分でスタントを演じ、エンドクレジットに失敗や負傷の場面を見せることが触れられている。あのNG集は、単なるサービスではない。本編で見た落下や衝突が、編集された見せかけだけではなかったと観客に知らせる仕組みでもある。

もちろん、いま同じことを無邪気に礼賛するのは危うい。映画の現場は安全であるべきだし、危険が大きいほど偉いわけではない。

それでも、ジャッキー映画の痛みは、アクションをただの勝ち負けから引き戻す。強さはCGの数字ではなく、手すりをつかみ損ねた手、顔をしかめる一秒、また立ち上がる呼吸として見える。

ハリウッドはその一部を受け取った。だが大作化すると、身体はしばしばスーツ、編集、デジタル効果の奥へ入ってしまう。すごいことは起きている。けれど、どこが痛いのかは少しわかりにくくなる。

椅子を持った瞬間、見どころが増える

ジャッキー・チェンのアクションを見ると、身の回りの物が少し違って見える。

高価な兵器や巨大な都市破壊がなくても、椅子があれば見せ場になる。傘があれば逃げ道になる。階段があれば落下の危険が生まれる。ガラスがあれば、観客は反射的に「それは痛い」と思う。

同じ物が、ひとつの役割に閉じない。椅子は座る物で、同時に盾で、足場で、トラブルの発生源である。映画を見る前の椅子より、見た後の椅子のほうが忙しい。

香港映画とジャッキー・チェンがハリウッドに持ち込んだものは、技の一覧ではなかった。誰がどこにいるかを見せる。道具がどう使われたかを見せる。ぶつかったら痛いとわかる距離で撮る。その積み重ねによって、アクションを「何が起きているか追える映像」にした。

だから、いいアクション映画を見たあと、こちらの目も少し変わる。

駅の階段、オフィスの椅子、店の棚、雨の日の傘。もちろん、実際に飛んだり蹴ったりしてはいけない。たいてい怒られるし、たぶん痛い。けれど、それらがただの背景ではなく、身体が通る場所、つまずく場所、逃げ道になる場所として見えてくる。

アクション映画は、強い人を眺めるためだけのものではない。

身体が何にぶつかり、何をつかみ、どう次の一手を見つけるかを見るものでもある。ジャッキー・チェンが笑いながら痛がって見せたのは、たぶんそのことだった。