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映画 / 異文化表象 / ディズニー

ディズニーは異文化をどう物語にしてきたか

Disney+ の画面で、古い『ピーター・パン』を再生する。

サムネイルには、空を飛ぶ子どもたちが描かれている。ネバーランド、海賊船、妖精、夜空。子どものころに見た人なら、懐かしさを覚えるだろう。

ところが、いまこの作品を見ると、映像とは別のことに気づく。先住民をひとまとまりの戯画として描いた場面。配信サービスが後から付けた注意書き。かつて笑って見過ごしていた歌や衣装が、問題のある描写として認識されるようになった事実。

この記事で扱いたいのは、ディズニーを好きでいてよいか、嫌いになるべきかという話ではない。もっと具体的な問いがある。

ディズニーは、世界中の文化をどうやって物語にしてきたのか。遠い土地の暮らしを短い映画に収める方法は、どこで批判されたのか。そして『モアナ』や『リメンバー・ミー』のような近年の作品では、何が変わり、何がまだ残っているのか。

結論を先に述べると、これは「昔は雑で、今は正しい」という単純な進歩の話ではない。変わったのは、異文化を映画に取り込むための手順である。かつては衣装、歌、踊り、なまりが、異国の雰囲気を素早く演出するための小道具だった。いまはそこに、観客の抗議、配信画面の注意書き、現地調査、文化監修、世界市場への対応、グッズ展開までが加わっている。

ディズニーは文化を描いてきた。同時に、文化を世界中で売れる物語へと翻訳してきた。この記事では、その両方の側面を追う。

古い冒険では、文化が小道具として使われた

『ピーター・パン』は1953年の映画である。

J・M・バリーの戯曲をもとにしたこの作品は、空を飛ぶ子ども、年を取らない少年、海賊フック船長という要素で知られる冒険と空想の古典だ。

しかし、ネバーランドに登場する「インディアン」の描写は、いま見ると問題が大きい。

彼らは、実在する多様な先住民族としてではなく、羽飾り、太鼓、奇妙な言葉、赤い肌というイメージにひとまとめにされている。ピーターやロストボーイズもそのイメージをまねて遊ぶ。つまりこの映画では、先住民の文化が、そこに暮らす人びとの歴史や生活としてではなく、冒険をにぎやかにするための背景装飾として使われている。

『ピーター・パン』のネバーランドを想起させる、ステレオタイプに描かれた先住民のキャンプのイメージ
『ピーター・パン』のネバーランドを想起させる、ステレオタイプに描かれた先住民のキャンプのイメージ

この「背景装飾になっている」という点が、異文化表象の問題の入り口である。

表象とは、ある人びとや文化を、言葉、絵、音楽、衣装などによって「こういうものだ」と示すことだ。問題は、描写が正確かどうかだけではない。誰が描くのか。誰がただ見られる側になるのか。どの特徴だけが切り取られ、どの歴史が省かれるのか。そこに権力関係が生まれる。

古いディズニー作品では、異文化はしばしば一瞬で伝わる記号として使われた。羽飾りを出せば「先住民」。砂漠と曲がった刀を出せば「アラビア」。竹と太鼓と家族の名誉を並べれば「中国」。それぞれの作品に魅力的な歌や映像はある。だが、作品が魅力的であることと、文化の描き方が丁寧であることは別の話だ。

『アラジン』では、歌詞が抗議によって書き換えられた

砂漠や宮殿、バザールなど、エキゾチックな「アラビア」のイメージが凝縮された架空の都市アグラバーの街並み
砂漠や宮殿、バザールなど、エキゾチックな「アラビア」のイメージが凝縮された架空の都市アグラバーの街並み

1992年の『アラジン』は、表象の問題に外部からの批判が介入した事例として重要だ。

映像も音楽も大きく進化した作品であり、ロビン・ウィリアムズによるジーニーの声の演技は、アニメーションの表現を塗り替えた。しかし、この作品でも「遠い異国」の描き方は問題になった。

具体的には、冒頭曲 "Arabian Nights" の歌詞である。

AFI Catalog の記録によれば、公開後、American-Arab Anti-Discrimination Committee(ADC)などがアラブ系住民への偏見を助長する歌詞やアクセント表現に抗議した。原曲には「顔が気に入らないと耳を切り落とされる」という一節があり、ADC はこれを含む複数の表現を問題視した。ディズニーは1993年のビデオ版で該当箇所を変更している。ここで重要なのは、歌詞そのものの良し悪しだけではない。映画の中の異文化描写が、画面の外にいる当事者の抗議によって、実際に作り替えられたという事実である。

文化の表象は、映画館の中だけで完結しなくなった。

観客が見る。当事者が抗議する。企業が対応する。ビデオ版や配信版で内容が変わる。異文化を描くことは、演出の問題にとどまらず、企業のリスク管理、市場戦略、販売物のバージョン管理に直結するようになった。

ここでエドワード・サイードの「オリエンタリズム」に触れておく。これは、遠い文化を、こちら側にとって魅力的で、わかりやすく、消費しやすいものとして作り上げる視線のことだ。ディズニーは学術的な帝国主義とは違う。しかし、砂漠、宮殿、神秘、危険、ロマンスをひとつの映画にまとめるとき、その構造はオリエンタリズムの視線と重なる。

魅力的にまとめるから売れる。売れるから、表象の影響も広がる。

『ポカホンタス』は、善意があっても歴史を恋愛物語に変えてしまう

1995年の『ポカホンタス』では、問題の性質がさらに変わる。

『アラジン』が民話の集合から物語を組み立てたのに対して、ポカホンタスは実在したパウハタン族(Powhatan)の女性である。National Park Service の解説によれば、彼女は1596年ごろに生まれ、1607年にイングランド人が Jamestown に入植したころ、まだ十〜十一歳ほどだった。John Smith との救出譚も、史実なのか、パウハタン族の儀礼を誤解したものなのか、長く議論されてきた。

その後の人生は、ディズニー映画の恋愛物語よりはるかに過酷である。彼女は1613年にイングランド人に捕らえられ、ジェームズタウンに連行され、英語やキリスト教を学ばされ、Rebecca の名で洗礼を受け、John Rolfe と結婚した。1616年にイングランドへ渡り、翌年、およそ二十一歳で亡くなっている。

ディズニー映画は、この歴史を、美しい歌と自然を愛するヒロインと John Smith との恋愛に置き換えた。

制作側に悪意だけがあったわけではないだろう。映画は異文化理解や戦争回避を主題にしようとしている。だが問題は、善意があるかどうかではない。植民地支配、土地の収奪、捕囚、改宗、病死という歴史が、相互理解の恋愛物語へと整理されてしまうことが問題なのだ。

これはディズニーが得意とする物語の作り方そのものに関わっている。複雑な歴史を、家族向けの歌と恋と成長の物語に変換する。暴力的な人物には、わかりやすい悪役の顔を与える。観客が泣ける場面を用意する。この物語形式はとても強力だが、強力であるがゆえに、歴史の複雑さを削り落としてしまう。

『ムーラン』と『プリンセスと魔法のキス』にも、形式の制約は残る

この問題は、形を変えて繰り返されている。

1998年のアニメ版『ムーラン』と2020年の実写版は、どちらも中国の伝説を素材にしながら、「中国らしさ」やジェンダーの役割をディズニーの物語形式に合わせて組み替えた作品だ。Manaworapong と Bowen の比較研究(2022年)は、二つの『ムーラン』で登場人物の話し方や権力関係に変化がある一方、家父長制的な物語の枠組みは依然として残っていることを示している。

2009年の『プリンセスと魔法のキス』にも同じ構造がある。この作品はディズニー初の黒人プリンセス、ティアナを主人公にしたことで大きな話題になった。しかし、物語の序盤で魔法によってカエルに変えられたティアナは、映画の大半を人間ではない姿で過ごす。ディズニー初の黒人プリンセスなのに、黒人女性として画面に映っている時間が短いのだ。この点は公開当時から繰り返し批判されてきた。さらに、1920年代のニューオーリンズという人種的に複雑な時代と場所を舞台にしながら、その歴史的背景には深く踏み込まない、という指摘もある。

つまり、「初めて○○を描いた」という企画上のマイルストーンがあっても、物語の仕掛けや形式が、その表象を薄めてしまうことがある。表象は少しずつ変わっている。だが、ディズニーの物語形式そのものがすぐに別物になるわけではない。

『モアナ』では、監修が制作工程の内部に入った

2016年の『モアナ』で、制作の手順がはっきりと変わる。

ポリネシアの航海文化と神話をもとにしたこの作品では、主人公 Moana が島の外への航海を禁じた村を離れ、半神 Maui とともに旅をする。

ここでディズニーは Oceanic Story Trust という助言グループを設置した。D23 の制作記事によれば、人類学者、振付家、タトゥーの専門家、言語学者、伝統航海士、文化アドバイザーなどが参加している。物語チームは、登場人物、歌、言葉、航海の描写、身体の動き、文化的な細部について、彼らと相談しながら制作を進めた。

この変化は大きい。

古い作品では、異文化はスタジオの中で「それらしさ」として組み立てられることが多かった。『モアナ』では、描かれる文化の知識や経験を持つ人びとが、制作過程に直接加わった。作品が完成してから批判を受けるのではなく、絵コンテを描く前の段階から相談が行われている。制作の順序そのものが変わったのだ。

TIME の記事でも、監督たちが Tahiti、Samoa、Fiji を訪れ、言語学者、振付家、村の長などに会ったことが報じられている。Taika Waititi が初期脚本に関わり、Tokelau と Tuvalu にルーツを持つ Opetaia Foa'i が音楽を手がけたことも重要だ。文化は背景の模様ではなく、誰が歌うのか、誰が踊るのか、誰が海を読むのかという制作上の判断に組み込まれた。

ただし、監修があればすべて解決するわけではない。

Smithsonian Magazine の Doug Herman は、『モアナ』がポリネシア航海史を広く知らせた意義を認めながらも、いくつかの問題を指摘している。Maui の体型が太平洋諸島の人びとへのステレオタイプを強化しうること。神話上の重要な女神 Hina が登場しないこと。そして、太平洋諸島の人びとへの蔑称として使われてきた歴史がある「ココナッツ」を、ココナッツの殻をまとった敵キャラクター(カカモラ)として登場させていること。監修が入っても、すべての当事者が納得するわけではない。太平洋の島々はひとつではなく、神話や慣習も一様ではないからだ。

文化監修は、「正しさ」を保証するスタンプではない。それは制作過程に当事者の声を取り入れる仕組みである。声が入ることで変わるものはある。だが、最終的な映画はディズニーの映画であり、世界中で売られるミュージカル・アドベンチャーであり、歌、キャラクター、衣装、続編、グッズへと展開される商品でもある。

『アナと雪の女王』では、批判が監修を契約に変えた

監修の仕組みは、別の作品でさらに進んでいる。

2013年の『アナと雪の女王』は、北欧の先住民サーミの文化的要素を、サーミの人びとに相談せずに作品へ取り込んだ。冒頭の合唱曲「ヴェリエ」は南サーミの音楽家フローデ・フィエルハイムの楽曲を編曲したものであり、クリストフの衣装や建築の意匠にもサーミ文化の影響がある。しかし、サーミの人びととの正式な協議は行われなかった。先住民の文化が、名前を明示されないまま「北欧ファンタジー」の素材として使われたことに対し、文化の流用だという批判が起きた。

続編の『アナと雪の女王2』(2019年)で、ディズニーの対応は大きく変わる。制作にあたり、ノルウェー、スウェーデン、フィンランドのサーミ議会およびサーミ評議会と正式な契約が結ばれた。「Verddet」と呼ばれるサーミの専門家による助言グループが設けられ、作中に登場する架空の先住民ノーサルドラの描写、衣装、音楽が監修された。契約の成果として、北サーミ語による吹替版も制作されている。

『モアナ』の Oceanic Story Trust が助言グループだったのに対し、ここでは先住民側の議会との契約になった。文化への配慮が、制作チームの善意に任されるものから、制度的な取り決めへと進んだ事例である。

ただし、ここにも課題は残る。サーミの言語は複数あるが、吹替版が作られたのは北サーミ語のみだった。どの言語が選ばれるかという判断にも、政治的な力関係が影響している。

『リメンバー・ミー』では、文化が物語を内側から動かしている

2017年の Pixar 作品『リメンバー・ミー』にも、同じ方向の変化がある。

主人公 Miguel は、音楽を禁じる家族のもとで育った十二歳の少年だ。死者の日(Día de Muertos)の夜、彼は死者の国に迷い込み、家族の記憶と音楽をめぐる物語が始まる。

Pixar の制作チームは、三年以上にわたり Mexico City、Morelia、Oaxaca、Guanajuato などを訪ね、博物館、市場、広場、工房、教会、墓地を見て回った。地元の家族に迎え入れられ、食べ物、音楽、仕事、祭りについて直接話を聞いたという。

この調査の成果は、映画の随所に表れている。

たとえばオフレンダ。死者の日に、家族が亡くなった人の写真、食べ物、花、好きだったものを並べる祭壇のことだ。映画では、マリーゴールドの花びらが死者の国と生者の世界をつなぐ橋になる。ここでマリーゴールドは、単なる色彩の演出ではない。家庭の祭壇、墓地のろうそく、写真を並べる手つき、声に出して呼ぶ家族の名前。映画の中で花が意味を持つのは、これらの生活習慣が物語の仕組みそのものになっているからだ。

メキシコの「死者の日」に飾られる祭壇(オフレンダ)やガイコツの意匠のイメージ
メキシコの「死者の日」に飾られる祭壇(オフレンダ)やガイコツの意匠のイメージ

架空の町 Santa Cecilia も、漠然とした「メキシコ風の町」ではない。Pixar は実在の村や町から、広場、中庭、墓地、靴職人の家業、音楽が聞こえる場所を観察し、組み合わせている。もちろん架空の町である。だが、文化が背景画の模様としてではなく、主人公が暮らす家、働く場所、祈る墓地、守る禁忌として、物語を内側から動かしている。

『ピーター・パン』の先住民描写と比べると、違いは明確だ。前者では文化は冒険の途中で出会う「変わった人たち」を示す記号だった。後者では文化は、主人公の家族関係、祖母の声、祭壇の写真、音楽への禁忌として、物語の内部に組み込まれている。外から眺める装飾ではなく、内側から物語を動かす構造になった。

ただし、ここにも商品化はある。Miguel のギター、骸骨の意匠、マリーゴールド、犬の Dante のぬいぐるみ、サウンドトラック。丁寧に調査された文化であっても、ディズニーと Pixar の流通網に乗れば、店頭に並ぶ商品になる。

それをただ悪いと言いたいのではない。文化は商品として広まることで、新しく知られることもある。だが商品になるとき、文化のどの部分が持ち運びやすい形に切り取られ、どの部分が残されるのかは、意識する価値がある。

変わったのは正しさではなく、翻訳の手順だった

ここまで並べると、ディズニーの変化の輪郭がはっきりする。

1950年代の『ピーター・パン』では、先住民の文化は冒険の背景装飾として置かれた。1990年代の『アラジン』では、異文化描写が当事者の抗議で書き換えられた。『ポカホンタス』では、実在人物の歴史が恋愛物語に置き換えられた。2009年の『プリンセスと魔法のキス』では、「初の黒人プリンセス」という企画が、物語の仕掛けによって画面上の表象を薄くした。

その後、『モアナ』や『リメンバー・ミー』では、制作の初期段階から調査と監修が入るようになる。『アナと雪の女王』では、1作目の無断使用への批判が、2作目でのサーミ議会との正式契約につながった。文化は背景の模様ではなく、航海の技術、家族の祭壇、衣装、音楽、言語として扱われるようになっている。

これは良い変化だ。

だが、これを「正しい表象に到達した」と言い切ると、重要な点を見落とす。ディズニーがしていることは常に翻訳だからだ。文化をそのまま持ってくるのではない。二時間弱のアニメ映画にし、子どもにもわかる主人公の目標を設定し、歌を入れ、敵や相棒を配置し、観客が感動できる構成に整える。

翻訳には、必ず取捨選択がある。

何を残し、何を削るか。誰の意見を聞くか。どの国の市場を意識するか。グッズにしやすい形はどれか。主題歌として歌いやすい感情は何か。プリンセスとして商品棚に並べやすい主人公かどうか。

アラン・ブライマンが論じた「ディズニー化」の概念は、ここで役に立つ。ディズニーは映画だけを作っているのではない。テーマパーク、消費体験、店舗、衣装、音楽、マーチャンダイジングを組み合わせた総合的なブランド装置を運営している。異文化の表象も、その装置の中に組み込まれる。

だから、『モアナ』の文化監修は重要である。同時に、Moana はプリンセスの商品ラインに入る。Maui はキャラクターグッズになる。航海文化は歌、衣装、テーマパークのアトラクション、続編の素材になる。

文化への敬意と商品化は、別々に存在しているのではない。多くの場合、同じ作品の中で同時に起きている。

好きなままで、見方を増やす

ディズニー作品の見方は、かつてより複雑になった。

古い作品に潜むステレオタイプに直面することもあれば、現代の作品の緻密な文化監修の裏に、世界市場に向けた商品化を見出すこともある。しかし、その両面を引き受けて初めて、ディズニーの本当の影響力が見えてくる。

彼らには、見知らぬ文化を世界的なポップカルチャーへと仕立て直す圧倒的な力がある。『モアナ』でポリネシアの航海術を知り、『リメンバー・ミー』でメキシコの「死者の日」を学ぶ。その入り口としての価値は否定できない。

大切なのは、その入り口が常に「誰かによって設計されたもの」だと意識することだ。そこには脚本家や監修者、声優、マーケター、そして抗議の声を上げた当事者たちの意思が働いている。

だからこそ、画面の向こう側にある文脈に目を向けてほしい。その音楽や意匠は誰の生活から紡がれ、誰の承認を経て、どう商品化されたのか。

好きな作品を諦める必要はない。ただ、好きなままでも、見方を増やすことはできる。ネバーランドの空も、アグラバーの市場も、モトゥヌイの海も、サンタ・セシリアの墓地も、単なる背景ではない。すべては、誰かの文化がディズニーという巨大な翻訳機を通って、私たちの元へ届いた軌跡なのだ。