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美術

浮世絵がパリの目を変えた

葛飾北斎(Katsushika Hokusai)の波を、見たことがない人はほとんどいない。

美術館の壁にもいるし、ポスターにも、Tシャツにも、スマホケースにもいる。あの巨大な波と、その下で小さく耐える船の図柄は、もはや「絵画」というより「柄」として生活に溶け込んでいる。けれど、あの有名な波がもともと一点ものの名画ではなかったことを、ふと思い出す瞬間がある。

「冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏」は、木版画である。版木に彫り、紙に刷り、何千枚も複製された。江戸の庶民が手に取れる値段で売られていた、量産品だ。メトロポリタン美術館のコレクションにも複数の摺りが収蔵されており、いずれもパブリックドメインとして公開されている。25.7 × 37.9 センチ。手に持てる大きさで、額縁に入っていなくてもいい。

名画は、名画になる前はただの版画だった。そして、その版画がヨーロッパに渡ったとき、渡り方もまた、あまり名画的ではなかった。

包み紙としての名画

浮世絵がパリに届いた経路には、いくつかある。

よく語られるのは、陶磁器の梱包材として渡ったという話だ。19世紀半ば、日本から輸出される陶磁器や漆器の隙間に、緩衝材として浮世絵が詰められていた。ヨーロッパの美術愛好家が荷解きをして、陶器よりもむしろ、そこに挟まっていた紙に目を止めた。この逸話はあまりにもよくできているので少し疑いたくなるが、実際にいくつかの資料がこの経路に言及している。

もうひとつは、1862年のロンドン万博と、それに続く1867年のパリ万博である。特に1867年のパリ万博では、日本が初めて公式に国として参加し、陶磁器、漆器、銅器、そして浮世絵を含む美術工芸品を大規模に展示した。来場者は約900万人。パリの市民と画家が、日本の版画を間近で目にした決定的な場だった。

ここで注目したいのは、浮世絵が「芸術作品」として厳かに紹介されたわけではないということだ。万博の展示品は工芸品、装飾品、産業製品の一部として並べられた。西洋の美術界が浮世絵を「発見」したとき、それは美術館のガラスケースの中ではなく、貿易品の中から立ち上がってきた。

パリの美術商が見せた日本

万博のあと、浮世絵はパリの都市消費に入り込んでいく。

その中心にいたのが、ジークフリート・ビング(Siegfried Bing)である。ドイツ出身でパリに拠点を置いた美術商で、日本美術の輸入と販売を専門にした。ビングは1888年から1891年にかけて『ル・ジャポン・アルティスティック(Le Japon Artistique)』という雑誌を刊行し、日本美術をヨーロッパの読者に紹介し続けた。彼の店はパリの画家たちが日本の版画に触れる入口になった。のちにアール・ヌーヴォーの拠点ともなるビングの店は、単なる骨董屋ではなく、視覚文化のハブだった。

それ以前にも、パリのデソワ夫妻(Édouard Desoye とその妻)の店が1860年代から日本美術を扱い、モネやドガ、ホイッスラーが通った。パリの街角に、浮世絵は商品として並んでいた。画家たちは美術館で日本を学んだのではない。店先で買ったのだ。

ここに、ジャポニスムの面白さがある。芸術的影響は、精神的な交流として語られがちだ。けれど実態はかなり物質的で商業的である。船で運ばれ、万博で見世物にされ、美術商の店頭に並んだ紙が、画家のアトリエに入り込んだ。

モネの壁、ゴッホのノート

では、画家たちは浮世絵から何を受け取ったのか。

歌川広重「庄野 白雨」。斜めに走る雨の線、橋を渡る人々の動き。この構図と気象の描き方が、パリの画家たちの目に新しく映った。
歌川広重「庄野 白雨」。斜めに走る雨の線、橋を渡る人々の動き。この構図と気象の描き方が、パリの画家たちの目に新しく映った。

クロード・モネ(Claude Monet)は200点以上の浮世絵を所有していた。ジヴェルニーの自邸には今もその版画が壁にかかっている。モネが浮世絵から受け取ったのは、異国の図柄ではなく、絵の作り方そのものだった。平坦な色面の重ね方、大胆な構図の切り取り、余白の使い方。遠近法で奥行きを作るのではなく、色の面で画面を構成するやり方は、浮世絵の木版画がすでにやっていたことだった。

1876年に描いた《ラ・ジャポネーズ》では、妻のカミーユに赤い着物を着せて描いた。壁には団扇が散りばめられている。

作者:クロード・モネ / タイトル:《ラ・ジャポネーズ》(1876年)。扇子が散りばめられた背景と着物をまとった妻カミーユ。
作者:クロード・モネ / タイトル:《ラ・ジャポネーズ》(1876年)。扇子が散りばめられた背景と着物をまとった妻カミーユ。

これは「日本趣味」の分かりやすい例だが、モネの本当の学びはもっと構造的だった。睡蓮の連作で、水面を画面いっぱいに広げ、地平線を消したとき、そこには浮世絵の構図感覚が深く入り込んでいる。

フィンセント・ファン・ゴッホ(Vincent van Gogh)は、もっと直接的だった。1887年、パリで暮らしていたゴッホは、歌川広重の「名所江戸百景 亀戸梅屋舗」と渓斎英泉の花魁図を油彩で模写している。

作者:歌川広重 / タイトル:「名所江戸百景 亀戸梅屋舗」(1857年)。手前に極端に大きく配置された梅の幹と、奥に広がる梅林。
作者:歌川広重 / タイトル:「名所江戸百景 亀戸梅屋舗」(1857年)。手前に極端に大きく配置された梅の幹と、奥に広がる梅林。
作者:フィンセント・ファン・ゴッホ / タイトル:「花咲く梅の木(広重に基づく)」(1887年)。ゴッホは広重の構図を油彩で模写し、独自の色彩感覚と漢字風の枠飾りを付け加えた。
作者:フィンセント・ファン・ゴッホ / タイトル:「花咲く梅の木(広重に基づく)」(1887年)。ゴッホは広重の構図を油彩で模写し、独自の色彩感覚と漢字風の枠飾りを付け加えた。

模写といっても、単なるコピーではない。広重の梅の木を鮮やかな色で塗り直し、画面の周囲に漢字風の文字を書き加えた。ゴッホはこの作品で、浮世絵の構図を自分の色彩に翻訳しようとしている。ゴッホ美術館はこの「花咲く梅の木(広重に基づく)」を所蔵しており、浮世絵が画家の手元にあったことの物的な証拠として見せている。

エドガー・ドガ(Edgar Degas)は、浮世絵の非対称な構図に惹かれた。画面の端で人物を切り取るやり方、斜めの視線、余白を大胆に使う配置。

作者:エドガー・ドガ / タイトル:「踊りの稽古」(1870年頃)。画面端で大胆に切り取られる人物や、余白を活かした非対称な配置に浮世絵の構図感覚が重なる。
作者:エドガー・ドガ / タイトル:「踊りの稽古」(1870年頃)。画面端で大胆に切り取られる人物や、余白を活かした非対称な配置に浮世絵の構図感覚が重なる。

ドガの踊り子の絵を見たとき、画面の右端で切れる人物のポーズに、浮世絵の版画構図が重なることがある。

メアリー・カサット(Mary Cassatt)は、1890年にパリのエコール・デ・ボザールで開かれた浮世絵の大規模展覧会を見て深く影響を受けた。

作者:喜多川歌麿 / タイトル:「当時三美人」(1793年頃)。繊細な線と平坦な色面による表現。
作者:喜多川歌麿 / タイトル:「当時三美人」(1793年頃)。繊細な線と平坦な色面による表現。
作者:メアリー・カサット / タイトル:「The Letter」(1890-1891年)。浮世絵の多色刷り木版画に触発され、ドライポイントとアクアチントで制作された版画連作のひとつ。
作者:メアリー・カサット / タイトル:「The Letter」(1890-1891年)。浮世絵の多色刷り木版画に触発され、ドライポイントとアクアチントで制作された版画連作のひとつ。

母子や日常の女性を描くカサットの版画連作は、喜多川歌麿の美人画の構図と色面処理を明確に参照している。

透視図法の外側

ここで少し引いて見ると、画家たちが浮世絵から受け取ったものの本質が見えてくる。

それは、日本的な図柄でも、異国的な気分でもなかった。透視図法の外側にある画面の作り方だった。

ルネサンス以来、西洋絵画は一点透視図法を基本にしてきた。画面に消失点を設け、そこへ向かって線を集めることで奥行きを作る。この仕組みは数百年にわたって西洋絵画の前提であり、画面構成の文法だった。

浮世絵は、この文法をまったく共有していない。北斎の波は透視図法で描かれていない。広重の雨は消失点を持たない。画面は奥行きではなく、平面上の配置と色の重なりで構成されている。人物は画面の端で切れてよいし、空は一色で塗りつぶしてよい。

パリの画家たちにとって、これは単なる異国の癖ではなかった。透視図法という自明の前提を外してもいい、という可能性を見せてくれるものだった。そしてこの可能性は、のちにセザンヌを経て、20世紀のモダニズムへつながっていく。

だから、浮世絵が印象派に与えたものは「影響」というよりも、「許可」に近い。こういう絵の作り方もあるのだ、という事実の提示。それが木版画という複製メディアに載って、何千枚もパリに届いた。

量産品が名画に教えたこと

ここで、もうひとつの面白さに触れておきたい。

浮世絵は、日本では大衆向けの版画だった。歌舞伎役者のブロマイド、名所の土産物、美人画のピンナップ。美術品として崇められていたわけではない。北斎の波も広重の雨も、額装されて床の間に飾られる類いのものではなく、そば屋の壁に貼られていても不思議ではない種類の絵だった。

ところがパリでは、この量産品が前衛的な表現として受け取られた。西洋美術の伝統では、絵画は一点ものの「オリジナル」に価値がある。画家が筆を取り、カンヴァスに唯一の作品を残す。版画は複製であり、序列としては絵画の下に置かれてきた。

浮世絵は、その序列をまったく気にしていない。もともと複製前提で作られ、何百枚も何千枚も刷られ、消耗品として流通していた。それが、西洋の画家たちの目には新鮮に映った。複製であることが弱みではなく、むしろ軽やかさと大胆さの源泉になっていた。

この摩擦は、実は今も続いている。美術館で浮世絵を見るとき、そこには「一点もの」に慣れた目で「量産品」を鑑賞するという、少しねじれた行為がある。ガラスケースの中の北斎は、もともとガラスケースのために作られたものではない。

影響ではなく、経路

浮世絵と印象派の関係を「影響」と呼ぶのは、たぶん正しい。だが、その言葉は少し静かすぎる。

実際に起きたことは、もっと騒がしい。日本の港から船に積まれた陶磁器の隙間に挟まっていた紙が、ヨーロッパの荷解き場で拾い上げられ、万博の展示場に並び、美術商の店頭で値札をつけられ、画家のアトリエの壁に貼られ、やがて新しい絵の描き方を後押しした。そこにあるのは、精神的な共鳴というよりも、複製メディアが海を渡り、都市を経由して、視線を変えた経路である。

北斎の波は、木版画だったからこそ何千枚も刷られ、何千枚も旅をし、何千もの目に届いた。もしあの波が一点ものの油彩画だったら、江戸のどこかの蔵に収まって、パリに届くことはなかっただろう。

いま美術館で浮世絵と印象派を並べて見るとき、そこにあるのは二つの文化の出会いだけではない。複製という仕組みが、芸術の見え方をどう変えたかという、もう少し大きな話が、額縁の裏側に折りたたまれている。