古い地図を開くと、カスピ海の東、アラル海の南、天山山脈の西に、大きく "Turkestan" と書かれていることがある。タシュケント、サマルカンド、ブハラ、ヒヴァ、フェルガナ。見覚えのある都市名が散らばり、その上にひとつの大きな名札が貼られている。
けれど、地図を少し眺めると不思議になる。トルキスタンという国があるわけではない。首都が一つあるわけでもない。国境線の内側にきれいに収まるわけでもない。ロシア帝国、清、ペルシア、アフガニスタン、ブハラ、ヒヴァのような名前が周囲に並び、トルキスタンはその上をゆるくまたいでいる。
トルキスタンとは何か。
短く言えば、「テュルクの土地」という意味をもつ広い地域名である。ただし、それだけでは足りない。トルキスタンは、言語の名前であり、交易路の名前であり、帝国が地図に書き込んだ行政上の名前であり、近現代には政治的な記憶を帯びる名前でもある。
この記事では、トルキスタンを「昔あった国」としてではなく、地図に残った分類の痕跡として読む。
「テュルクの土地」は、国名ではなかった
トルキスタンという言葉の芯には、テュルクがある。
テュルクとは、現在のトルコ共和国だけを指す言葉ではない。広くは、ウズベク、カザフ、キルギス、トルクメン、ウイグル、アゼルバイジャン、トルコなど、テュルク系の言語を話す人びとの大きなまとまりを指す。中央アジアの多くの地域で、こうした言語と文化が重なってきた。
だから、トルキスタンは「テュルク系の人びとが暮らす土地」という意味をもつ。ペルシア語系の「スターン」は土地や場所を表す語で、アフガニスタン、パキスタン、カザフスタンの「スタン」と同じ系統にある。名前だけ見ると、いかにも国名のように見える。
だが、ここで急いではいけない。
テュルク系の言語を話す人びとがいるからといって、その範囲が一本の国境線になるわけではない。中央アジアには、ペルシア語系のタジク人もいる。サマルカンドやブハラのような都市では、テュルク語系とペルシア語系の文化が重なってきた。草原には遊牧の移動があり、オアシスには都市と市場があり、山地には別の交通路がある。
つまりトルキスタンは、民族地図を一色で塗れば完成する名前ではない。言語の広がりを手がかりにしながらも、都市、交易、宗教、帝国の支配が重なってできた、かなり大きな名札だった。
オアシス都市が、広い名前に手触りを与えた
トルキスタンと聞くと、砂漠と草原だけを思い浮かべるかもしれない。けれど、この名前を具体的にするのは都市である。
サマルカンド、ブハラ、タシュケント、カシュガル。どれも、ただの点ではない。砂漠や山脈のあいだで、人、絹、馬、紙、香料、宝石、宗教、言葉が交差した場所である。シルクロードと呼ばれるものも、一本の道路ではなく、ユーラシアの各地を結ぶ複数の経路の束だった。UNESCOも、シルクロードを東西の貿易と文化交流を支えた道のネットワークとして扱っている。
オアシス都市では、水のある場所に畑と市場ができる。隊商は井戸や宿泊地をつないで移動する。商人は都市で税を払い、荷を積み替え、言葉を変え、通貨を替える。そこには、草原を横切る移動の速さと、都市に蓄積される文字や信用の遅さが同時にあった。

この地図を見ると、トルキスタンが「中央アジアのどこか」では済まないことがわかる。アラル海から天山山脈まで、川、砂漠、山地、都市、保護国、帝国領が一枚の紙に押し込められている。トルキスタンという名前は、その複雑さを一語で呼ぶための便利なラベルだった。
便利なラベルは、たいてい雑でもある。
ロシア帝国の線が、西トルキスタンを作った
19世紀の地図で「トルキスタン」が濃くなるのは、ロシア帝国が中央アジアへ南下していく時代である。
ロシアはタシュケントを押さえ、1867年にトルキスタン総督府を置いた。サマルカンドを含む地域はロシア領に組み込まれ、ブハラやヒヴァは形式上の君主を残しながらロシアの保護国となった。コーカンド・ハン国も消えていく。こうして、地元の王朝、オアシス都市、遊牧民の移動圏が、ロシア帝国の軍事と行政の地図に入れられた。
ここで「西トルキスタン」という見方が強くなる。だいたい現在のウズベキスタン、トルクメニスタン、タジキスタン、キルギス、カザフスタン南部にまたがる地域である。もちろん、現在の国境をそのまま過去に貼り戻すことはできない。だが、ロシア帝国側の中央アジアをまとめて呼ぶ便利な名前として、西トルキスタンは使われた。
ロシア帝国は、この地域を文字だけでなく写真でも記録した。1870年代の『トルキスタン・アルバム』には、都市、建物、住民、工芸、遺跡が大量に収められている。サマルカンドの写真は、単なる旅の記念ではない。帝国が支配地を「見えるもの」として整理するための資料でもあった。

地図に線を引く。都市名をロシア語で記録する。写真を貼り、行政区画を作る。こうした手順を通して、トルキスタンは「そこに昔からある名前」であるだけでなく、帝国が扱いやすい地域名にもなっていった。
東トルキスタンは、新疆という名前と重なる
一方で、天山山脈の東と南、タリム盆地、カシュガル、ホータン、トルファン、ウルムチのあたりには、別の名前が重なる。
東トルキスタンである。
この名前は、現在の中国の新疆ウイグル自治区と大きく関係する。清は18世紀にジュンガルやタリム盆地方面を支配下に置き、19世紀後半の反乱と再征服を経て、1884年に新疆省を設けた。新疆とは「新しい境域」という意味をもつ名前で、清の側から見た統治の言葉である。
同じ地域を、テュルク系ムスリムの歴史やオアシス都市の連なりから見ると、東トルキスタンという呼び方が出てくる。カシュガルやホータンは、言語、宗教、交易の面で中央アジア西側とのつながりを持ってきた。だから東トルキスタンという名前は、ただの地理説明ではない。現在では、歴史認識や政治的立場も帯びる。
この東側の名前だけを追うと、話はさらに細かくなる。カシュガル、ヤクブ・ベク政権、1884年の新疆省化、二つの東トルキスタン共和国、そして現代の人権問題が重なってくる。詳しくは、対になる記事「東トルキスタンとは何か」で整理する。
ここで大事なのは、名前をすぐに勝ち負けで処理しないことだ。
新疆という名前は、清と中国国家の行政の言葉である。東トルキスタンという名前は、テュルク系の歴史的つながりや、現代の政治的主張と結びつく言葉である。どちらも、同じ土地を見るための中立なガラスではない。名前を変えると、地図の中心に置かれる主体が変わる。
トルキスタンという地名の難しさは、ここにある。地名は場所を指すだけではない。誰がその場所を名づけ、どの歴史を前に出すかを決めてしまう。
ソ連は、大きな名前を共和国にほどいた
20世紀に入ると、トルキスタンという大きな地域名は、さらに別の形でほどかれていく。
ロシア革命後、旧ロシア領中央アジアにはトルキスタン自治ソビエト社会主義共和国が作られた。しかし1920年代、ソ連は中央アジアを民族名に基づく共和国や自治単位へ再編していく。ウズベク、トルクメン、タジク、キルギス、カザフ。現在の中央アジアの国境につながる骨格が、この時期に作られた。
この民族境界画定は、地図の線を引き直すだけではなかった。
学校で使う言語、行政文書の言語、民族名、首都、共和国の歴史叙述が組み合わされる。サマルカンドやブハラのように、複数の言語と記憶が重なる都市も、新しい共和国の枠の中で位置づけ直される。広い「トルキスタン」は、民族別の共和国名に分けられ、公式の行政名としては後ろへ下がっていった。
ここで、トルキスタンは消えたのか。
完全には消えない。地名として、歴史概念として、政治的な記憶として、書物や運動や地図の中に残る。ただ、日常の地図帳で前面に出るのは、ウズベキスタン、カザフスタン、キルギス、トルクメニスタン、タジキスタン、中国の新疆といった名前になった。
つまり、トルキスタンは一つの国にならなかったのではない。近代の帝国と国民国家の地図の中で、別の名前に分解されていった。
地名は、誰の地図かを残している
いま地図アプリで中央アジアを開くと、国境線はくっきりしている。ウズベキスタン、カザフスタン、キルギス、タジキスタン、トルクメニスタン、中国。駅名や空港名も、検索窓に入れればすぐ出てくる。
その画面では、トルキスタンという大きな名前はあまり前に出てこない。けれど、古い地図や歴史書を開くと、まだそこにある。カスピ海と天山山脈のあいだに、ふっと浮かぶ。国境線より大きく、民族名より曖昧で、帝国の線より長く生きる名前として。
トルキスタンは、昔あった国の名前ではない。だからといって、ただの空想の地名でもない。
テュルク系の言語世界がある。サマルカンドやブハラのオアシス都市がある。ロシア帝国の総督府がある。清の新疆省がある。ソ連の民族境界画定がある。東トルキスタンという政治的な記憶がある。それらが一枚の地図の上で重なったとき、トルキスタンという名前が見えてくる。
地図の文字は、親切な名札のような顔をしている。だが、その名札は誰かが貼ったものだ。次に地図で中央アジアを見るとき、その文字がどの時代の手で貼られたのかを少し疑ってみるといい。トルキスタンという名前は、その疑い方を教えてくれる。